尊 い 人 だ す け の 精 神  〜 ハ ン セ ン 病 患 者 の 救 済 の 事 蹟 〜

天理教蒲池分教会の先代会長である金納伊之助氏は、大正中期から昭和初期頃まで、
近隣のハンセン病患者を保護し、お世話取りをされました。そうした尊い人だすけの行いは、
現在の学正会・社会福祉事業の源泉となっています。
下に紹介する文は、伊之助氏がその当時の思い出を綴ったものです。



  
  村人からなお一層嫌われることができてきた。21と25になるというハンセン
 病の男が、教会に住み込むようになり、村人のごうごうたる非難を頭から浴びせか
 けられた。
  しかし、人を助けるのが私の務めならと、幼い時から慣らされた卑屈感に反発し
 て得た壁のような忍耐力で、それに耐えていった。

  21才のは自分の親のご飯につばを吐きかけることによって、業病にとりつかれ
 た絶望を、わずかに自分で慰めていたほど救われざる男であった。おぢばの理を
 頂き、救われるものならと本部に同道することになった。業病の者はどうしてこのよ
 うに無恥だろうかと思われる位に、は傍若無人だった。汽車の中で、手ぬぐいで
 でも顔を隠せばいくらか可愛さもあったが、崩れかかった顔は一見してそれと分か
 った。世間に復讐するかのように、はごう然と構えていた。みんな私の全生の因縁
 とたんのうせざるを得なかった。

  本部からの帰途、門司で刑事が発車間際にを引き降ろした。汽車から降りそこ
 ねた私は、次の駅から引き返し、門司の本署に駆けつけたがいなかった。
  特高課に行ったが、衛生課に廻ったということであった。早速衛生課に行った。


金納伊之助氏
  『君は』
  『天理教の布教師です』
  『その天理教の布教師が、どうしてあのなどを連れて歩くのだ』
  『何とかして、あの業病を助けてもらいたいと思いまして』
  『もう病気もひどい、熊本のハンセン病病院に入れようと思っている』
  『ですが、の親から預かっている男ですから、私の一存でどうこうするわけにはいきません。
   とにかく病院に入れるにしても、一応私に返していただきたいのですが』
  『ところが、ここにはおらん。駅前の駐在所に行っている』
  また駅前に引き返した。
  『汽車には乗せてはいけないことになっているから、汽車賃を精算して、今出ていったところだ』
   こう聞いて、すぐさまその辺りを探したが、見当たらなかった。仕方なく、私は汽車で国に帰った。

  はその翌夜、教会に帰ってきたが、直後、亡くなってしまった。
   "天理教は大きな顔をして歩いているが、とうとう助けることができなかった"と、わざと聞こえるよう
  な陰口をいたるところで聞いた。
   お道はつらい道だと侘びしかったが、その悲哀も朝露を含んだ朝顔のように、また生々としたもの
  に変わっていった。

   よりはいくらかまた取柄があった。神経ハンセン病で、深く今生の通り方をさんげし、つつまし
  くにおいがけに廻った。
  いかに悪業があったとて、さんげの道は尊いものだ。のにおいがけした人たちが、現在、私の方
  の教会の熱心な信者として、いまだに続いている人が多数いる。そのことを思えば、村人からののし
  られ、もう布教はやめだ、と投げ出そうという気になったことは度々だったが、泣き泣きでも尽くした理
  は消えない。何一つ間違いのない道だということが、後に知らされた。


     昭和5年伊勢二見ヶ浦にて
   前列右・伊之助氏、隣・学氏(4才)

 Bは現在、九州南端の鹿児島の星塚という療養所にい
るが、療養所でにおいがけをし、50人あまりの同病者の
信者をつくり、神様を祀った。療養所でも公認のものとな
り、私も招かれて数回お見舞いがてら講演に行ったこと
もある。療養所からはハイヤーで駅まで出迎えてくれ、
からは信者の献金を一まとめにしてお供えしてくれている。
 このの2人がいる間は、近所の子供たちにいじめら
れるため、私の子供たちは、近くであってもお使いには嫌
がって行こうとしなかったものであったが、種は正直であっ
た。

伊之助氏は昭和28年、長崎方面へ巡教講演に行き、
病を得て三ヶ月ほど病床にあった後その生涯を閉じられました。(享年55才)


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